ラジカセが開いた自由の扉

我が家は、世間一般から見れば比較的裕福な部類に入っていたと思う。しかし、その生活ぶりは極めて質素であった。いや、子どもの私から見れば、かなりの「倹約家」の家庭だった。

上野動物園や豊島園、油壺マリンパークなど、子どもにとっての一大イベントである行楽地へ出かけても、外食はしなかった。

母が早朝から握ったおにぎりと簡単なおかずを持参し、家族全員でそれを食べる。

ランドセルも洋服も文房具も、ほとんどが兄のお下がりだった。

兄は物を丁寧に使うタイプではなかったので、お下がりになる頃にはかなり傷んでいることも多く、正直あまり嬉しくはなかった。

靴下も穴が開けば捨てずに繕う。

使えるものは徹底的に使い切る。

そんな家庭だった。

しかし不思議なことに、子どもの教育に関してだけは別だった。

必要と判断すれば、惜しまずお金を使っていた。

その象徴が、長姉のために購入されたソニーのラジカセだった。

おそらく購入目的は、ラジオ英語講座の受講と録音だったと思う。

長姉は、都内公立中学校のアチーブメントテストで常に上位に名を連ねる秀才だった。

しかし、いわゆるガリ勉型ではない。

短時間で集中し、要点を押さえて効率よく勉強するタイプだった。

そのため、ラジカセも単なる娯楽機器ではなく、学習のための道具として考えていたのだろう。

長姉には、我が家の保守的な家風とは異なる、先見性のようなものがあった。

当時は、女性が短大や大学を卒業すると就職し、やがて結婚して退職することを望ましいとする風潮が、まだ色濃く残っていた。

そんな時代の中で、長姉は女性が社会で自立して生きるためには何が必要なのかを真剣に考えていたように思う。

理系志望であった彼女は、研究職に進みやすい理学部ではなく、実務との結びつきが強い応用化学や薬学の道を選んだ。

薬学を選んだのも、純粋な学問的関心だけではなく、女性が社会で活躍できる可能性を考えた結果だったのではないだろうか。

また、勉学以外の分野にも積極的だった。

まだ認知度の高くなかった手話ボランティアに参加したり、薬学部に在籍しながらプログラミング教室に通ったりもしていた。

常に自分の可能性を広げようとしていたのである。

ラジカセも、その延長線上にあった。

自分が聞きたい番組を聞き、自分の判断で録音し、自分の勉強に役立てる。

そこには明確な目的意識があった。

そして、今になって振り返ると、ここにはもっと大きな意味があったように思う。

オープンリールデッキの時代、音は父の支配下にあった。

父が機械を出し、父が再生し、父が聞かせる。

しかしラジカセは違った。

操作は簡単だった。

録音も再生も自分でできる。

自分が聞きたいものを、自分の意志で選べる。

音を楽しむ自由が、初めて家庭の中で私たち子どもに開放されたのである。

少々大げさに聞こえるかもしれない。

しかし我が家において、ラジカセの登場は単なる家電製品の増加ではなかった。

それは、父親が独占していた音の世界が少しずつ開かれ、子どもたちが自ら音を選び、自ら学び、自ら楽しむ時代への転換点だった。

我が家にラジカセがやって来た日、それは音響機器が変わった日であると同時に、家族の中の力関係が静かに変わり始めた日でもあったのである。