音楽は世界への入口だったーーアジアサブカルチャーに触れて

1960年代生まれの少年たちにとって、ブルース・リーは特別な存在だった。

もちろん私も例外ではない。

しかも私たちが彼を知った頃には、既にブルース・リーはこの世を去っていた。

それが逆に神話性を高めていたように思う。

彼はまさに彗星のような存在だった。

当時、街のおもちゃ屋にはプラスチック製のヌンチャクが並び、子どもたちは競うように振り回していた。

私も例外ではなかった。

姉の黄色いジャージと母の黄色いセーターをこっそり借り出しては、『死亡遊戯』の有名な戦闘シーンを真似したものである。

今思えば、ずいぶん迷惑な話だった。

そして今になって気づくことがある。

私は以前、

「中学時代、高中正義のギターによって音楽に目覚めた」

と書いた。

もちろんそれは事実である。

しかし、その原点をたどれば、もっと前にあったのかもしれない。

ブルース・リー映画である。

当時の我が家の音響環境は決して良くなかった。

高性能なステレオもなければ、大型スピーカーもない。

それでも、ブルース・リーの勇ましい姿と映画音楽が一体となって、私の心を強く揺さぶっていた。

音楽そのものを意識していたわけではない。

しかし確かに私は、その時既に音楽の力に触れていたのである。

やがてブルース・リーの時代が終わり、香港映画界の新たなスターとしてジャッキー・チェンが登場する。

そして彼の映画にもまた、記憶に残る音楽があった。

今振り返ると、私にとって映画と音楽は最初から切り離せない関係だったのだと思う。

高校を卒業して以降、私は中国映画を熱心に観るようになった。

『ラストエンペラー』。

『さらば、わが愛/覇王別姫』。

『戯夢人生』。

『宋家の三姉妹』。

この頃になると、自室にはそれなりの音響機器も揃っていた。

映画そのものだけでなく、映画音楽にも自然と耳が向くようになっていた。

もっとも、私が中国映画に惹かれた理由は娯楽だけではなかった。

当時の私は中国史への興味を強めていた。

古代中国については本で学ぶことができる。

しかし近現代史になると、それだけでは実感が湧きにくい。

その点、映画は格好の教材だった。

清朝末期。

辛亥革命。

国民党政権。

文化大革命。

台湾。

そうした歴史の流れを映像と音楽が補ってくれた。

特に音楽は、私の記憶を定着させる上で大きな役割を果たしていたように思う。

その後、海外を放浪していた頃になると、今度はインドネシア映画やインドネシア・ポップスにも関心を持つようになった。

旅先では、現地の人々と会話するきっかけを探している。

その時に役立ったのが音楽だった。

映画だった。

音楽の話題は国境を越える。

政治の話をしなくてもよい。

宗教の違いを気にする必要もない。

ただ好きな歌や映画について語ればよい。

それだけで人との距離が縮まる。

当時のインドネシアで、日本の曲として圧倒的な知名度を持っていたのが五輪真弓の『心の友』だった。

私は当初、『恋人よ』の方が有名だと思っていたので意外だった。

だが、それもまた異文化との出会いだった。

また、旅を続ける中で興味深い事実にも気づいた。

当時のインドネシア音楽業界は、資金面で日本企業との結びつきが強かった。

レコード会社。

音響機器メーカー。

広告代理店。

政治的には独立していても、経済的には日本を含む海外資本との関係が深かったのである。

後年のJKT48なども、その延長線上で理解できる現象だったように思う。

さらに面白かったのは、音楽を追いかけているつもりが、いつの間にかその国の社会や経済に目が向いてしまうことだった。

インドネシアの小さな雑貨店へ現地のカセットテープを買いに行った時のことである。

店頭にはオランダ資本のユニリーバ製品がずらりと並んでいた。

旧宗主国の影響が、こんな形で今も残っている。

そんなことを知ったのも音楽のおかげだった。

振り返れば、私は音楽を追いかけていたつもりだった。

しかし実際には、音楽に導かれて世界を見ていたのかもしれない。

ブルース・リーから始まり、

中国映画へ。

インドネシア・ポップスへ。

そして後にはスーフィー音楽やヌスラット・ファテ・アリ・ハーンへ。

音楽は娯楽であると同時に、私にとって世界への入口でもあったのである。