般若心経が音楽だったと気づいた日

私は還暦を間近に控えた今でも、相変わらず悩みの多い人間である。

他人から見れば取るに足らないことでも、あれこれと考え込み、時には気持ちが沈んでしまう。

もっとも、若い頃は今以上だった。

社会人になって数年が経った頃の私は、仕事でも私生活でも行き詰まりを感じていた。

主体性がない。

意欲が感じられない。

やらされている感が強い。

挙げ句の果てには、チームにも悪影響を及ぼしていると言われる始末だった。

自分自身でも何とかしたいとは思っていた。

しかし、どうすればいいのか分からない。

そこで当時の私は、

「何か非日常的な体験をすれば、自分が変われるのではないか」

と考えるようになっていた。

今なら分かる。

答えは外にあるのではなく、自分の内側にある。

しかし、その時の私はそんな当たり前のことすら理解できていなかった。

そんなある日、テレビで座禅体験の特集を見た。

信仰心があったわけではない。

むしろ宗教とは縁遠い人間だった。

だが藁にもすがる思いで、

「座禅道場に行ってみようか」

と思うようになった。

調べてみると、近畿地方には一般人が参加できる宿泊型の座禅道場がいくつか存在していた。

まず思い浮かんだのが永平寺だった。

しかし問い合わせたところ、

「うちは二泊三日だし、かなりしんどいぞ」

と言われて怖じ気づいてしまった。

結局、一泊二日で参加できる比叡山延暦寺の居士林を選んだ。

今振り返ると、

「修行したい」と言いながら楽な方を選んでいるのだから、実に私らしい。

京都まで新幹線で行き、湖西線に乗り換え、比叡山へ向かった。

ところがここでも私は失敗する。

乗り継ぎ時間を読み違え、二十分も遅刻してしまったのである。

もっとも寺側から見れば私はお客様であり、叱られることはなかった。

早速、和尚の説明を受けた後、初めての座禅が始まった。

静寂だった。

山麓から延暦寺へ向かう途中は観光地のような賑わいも感じたが、居士林の中はまるで別世界だった。

音がない。

人の声もほとんど聞こえない。

ただ静寂だけがあった。

ところが私の心は静寂とは程遠かった。

和尚からは、

唾を飲み込むな。

身体を動かすな。

雑念を払え。

と指導される。

しかし私の頭の中は、下山後に河原町の「総本家にしんそば」で何を食べようかということでいっぱいだった。

おそらく身体も動いていたのだろう。

ありがたい警策を頂戴した。

すると不思議なことに痛いはずなのに妙に気持ちが良い。

その瞬間、なぜかアントニオ猪木の闘魂ビンタが頭に浮かんだ。

私の煩悩は、最後まで消えることがなかった。

しかし、本当の発見は翌朝に訪れた。

朝のお勤めである。

まだ寒さの残る本堂に集まり、大勢の僧侶たちが読経を始めた。

「摩訶般若波羅蜜多心経……」

それは子どもの頃から何度も耳にした声だった。

葬儀でも聞いた。

法事でも聞いた。

だが、この時は違った。

大勢の僧侶が一斉に唱える読経は、まるで巨大な合唱団のようだった。

いや、それ以上だった。

人の声だけで構成されたオーケストラのように聞こえたのである。

当時の私にとって宗教音楽といえば讃美歌くらいしか思い浮かばなかった。

だから新鮮だった。

僧侶たちが唱える般若心経もまた、立派な音楽ではないか。

そんなことを初めて思ったのである。

特に心に残ったのが、

「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」

という結びの部分だった。

意味は分からない。

しかし、そのサンスクリット語の響きは不思議な美しさを持っていた。

私はその時、由緒ある延暦寺の本堂で、一つの壮大なコンサートに参加しているような気分になっていた。

一泊二日の修行が終わり、私は再び日常へ戻った。

当然ながら何かが劇的に変わることはない。

上司や同僚から手厳しいことを言われることも相変わらずだった。

悟りを開いたわけでもない。

人格が向上したわけでもない。

だが、それから長い年月が経って、ようやく気づくことがあった。

ブルース・リーの映画音楽。

高中正義のギター。

バリ島のケチャ。

スーフィーの旋回舞踏。

そして比叡山の般若心経。

それらは私の中では別々のものだと思っていた。

だが本当は違った。

すべて「音」による体験として一本につながっていたのである。

今、私は父から浄土宗の檀家を引き継ぎ、阿弥陀如来の恩徳を思いながら日々を送っている。

若い頃の私が見たら驚くだろう。

宗教など関心がなかったはずの人間が、今では西本願寺で恩徳讃を聞き、

「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし」

という言葉に深く心を動かされるのだから。

あの日、比叡山で私が学んだのは禅ではなかったのかもしれない。

般若心経の意味を完全に理解したわけでもない。

だが一つだけ確かなことがある。

私はあの朝、本堂に響く読経を聴きながら、

般若心経もまた音楽なのだと初めて気づいたのである。