音は人を動かす── バロンダンスと和太鼓の向こう側

これまで生きてきて、一つ確信に近いものがある。

それは、どの国や地域にも、その土地ならではの行動様式が存在するということだ。

お米を単なる食べ物ではなく、どこか神聖なものとして敬う気持ち。

丘の上の巨岩に、人知を超えた何かを感じる感覚。

晩秋の落ち葉を掃き清めたくなる衝動。

日本人は無宗教だと言われることが多いが、こうした感覚そのものは、誰もが少なからず持っているのではないだろうか。

ただ、仏教やキリスト教のような特定の宗教を信仰していないだけである。

そして私は、この行動様式を支えている重要な要素の一つが音楽ではないかと考えている。

讃美歌がある。

アザーンがある。

般若心経がある。

いずれも音楽そのものではないかもしれない。

しかし、人の心を一つの方向へ向かわせるという意味では、音楽と極めて近い存在である。

音楽には、一人で楽しむ側面もある。

だが、それ以上に、

「共に感じる」

「共に動く」

「共に分かち合う」

という働きがあるように思う。

昨晩も、最寄駅前で若い女性が路上ライブを行っていた。

多くの人は足を止めることなく通り過ぎていく。

それでも彼女は歌い続ける。

なぜだろう。

単に承認欲求だけではないと思う。

歌を通して誰かとつながりたい。

その気持ちが根底にあるのではないだろうか。

伝統文化の世界に目を向けると、その傾向はさらに顕著になる。

とりわけアニミズム的な文化圏では、音楽と行動様式は切っても切り離せない関係にある。

私がバリ島ウブドで見たバロンダンスもそうだった。

ガムランの響きに合わせ、踊り手の女性が目線を動かし、指先を震わせ、腕をしなやかに操る。

一つひとつの動作が音楽と一体化している。

台湾・烏来で見たタイヤル族の舞踊も印象深かった。

軽快なリズムに合わせ、男女が輪になって踊る。

そこには単なる娯楽を超えた共同体の力が存在していた。

和太鼓も同様である。

法被を着た演者たちが、巨大な太鼓を一斉に打ち鳴らす。

その動きは驚くほど正確に揃い、美しい。

演奏というより儀式に近い。

盆踊りもそうだ。

提灯が灯り、露店が並び、人々が輪になって踊る。

音楽が人を集め、人がまた音楽を生み出しているように見える。

私は、こうした光景こそが行動様式の結晶なのだと思う。

そして、その奥には必ず宗教観が存在している。

宗教と音楽は別物ではない。

むしろ、本来は不可分なのかもしれない。

以前の投稿で、般若心経やアザーンを音楽として捉えた。

しかし今はもう一歩踏み込んで考えている。

それらは単なる音ではない。

人々の行動を支え、共同体を維持し、価値観を継承するための装置でもある。

だから私は、バロンダンスも和太鼓も、般若心経もアザーンも、同じ文脈で眺めている。

音楽として。

そして行動様式として。

これもまた、『音響機器、至高の音を求めて』という連載のテーマの一つである。

私が追い求めてきたのは、高音質な音だけではない。

人々の心を動かし、行動を生み出し、文化を支える音そのものだったのである。

過去の投稿と合わせてお読み頂けましたら幸いです。 [般若心経が音楽だったと気づいた日] (https://note.com/sheep_monologue/n/n98f078df738c) [アザーンが世界を変えた朝── ジャカルタの夜明けに聞いた声] (https://note.com/sheep_monologue/n/nd1fb8a7c658c)