「パソコンが使へぬ!」から始まる情報システム部門

いさゝか昔のことを、申し述べむと思ふなり。

インターネットが普及し、携帯電話を介してネットワークを利用することも当たり前になつてくると、ありとあらゆる業務をコンピュータによつて合理化、あるいは自動化してゆかねば、時代に取り残されるといふ危機感を、経営者の多くが抱くやうになつた。

とはいへ、現場にゐる社員のすべてが、すぐにコンピュータを使ひこなせたわけではない。

ベテラン社員の中には、家でパソコンを使つたことのない者もゐた。パソコンどころか、キーボードに触れること自体が初めてといふ人も、決して珍しくはなかつた。

そのため、出張経費の精算、出庫伝票の発行、赤伝票の処理などは、事務職員が代行することになつた。

されど、日々のメールの送受信や営業日誌の入力まで、すべてを代行するわけにはいかぬ。本人が入力しなければならない仕事も、少なからず残つてゐた。

パソコンが苦手なベテラン社員が、キーボードを両手の人差し指だけで、ひとつひとつ押してゐる姿を見かけることもあつた。携帯電話の操作も、また同じである。

さらに、社内ネットワークの不具合や、複合機の故障など、本人の技量とは関係のない理由で、仕事が進まなくなることもある。

一度、業務の中にコンピュータ化を進めてしまふと、簡単には後戻りできない。

嫌が上にも、誰かがその仕組みを動かし、業務を進めてゆかねばならないのである。

このやうな状況のもと、中小企業などでは、当初、パソコンや事務機器に詳しい社員が、本業と並行して対応してゐたやうに思ふ。

「パソコンのことなら、あの人に聞けばよい」

いつしか、そのやうな役割を担ふ社員が、各職場に現れるのである。

とはいへ、彼らにも納期のある本業がある。本業を疎かにするわけにはいかぬ。パソコンの面倒を見ることが増えれば増えるほど、本人の負担も大きくなる。

こうした事情から、中小企業においても、パソコンや社内システムを専門に扱ふ部署が、少しずつ生まれていつたのではあるまいか。

情報システム部、情報システム課。あるいは、総務部付きのシステム担当者。

呼び名はさまざまであつたが、いづれも、現場の「困つた」を引き受けるところから始まつたのだと思ふ。

もちろん、小規模の税理士法人や法律事務所などでは、パソコンのトラブルが起きたときだけ、専門業者に都度依頼することもあつた。

それで済む規模の事業所もある。

ただ、パソコンが使へなくなる原因は、必ずしも故障だけではない。設定の問題であつたり、操作方法が分からなかつたり、利用者本人の経験不足によることも多い。

そのやうな場合、外部の業者を呼ぶほどではないが、誰かにすぐ尋ねられると助かる。

事務所に、その対応をしてくれる人が常にゐれば、現場としては心強い。

かくいう筆者も、かつて某アパレル企業で、情報システムの仕事に従事したことがある。

筆者の勤めてゐた会社に限らず、当時の多くのアパレル企業では、すでに「オフコン」と呼ばれる業務用コンピュータが導入されてゐた。

大企業ともなれば、別途、電算室といふ部署が存在してゐた。

ただし、当時の電算室は、営業事務や集計業務の色合ひが強く、現在のやうな情報システム部門の役割を、そのまま担つてゐたわけではないやうに思ふ。

さて、筆者は情報システム担当として働くなかで、ある意味では、人間の本性にかかはる出来事を体験する機会を得た。

ある時、館内放送で営業本部長に呼ばれた。

本部長の机へ行つてみると、どうもパソコンのキーボードが入力できなくなつたといふ。

その言葉には、明らかにこちらへ怒りの矛先が向いてゐることが感じられた。

普段はたいへん温厚な方である。それなのに、次第に語気が強くなり、こちらがパソコンに触れようとした時には、とうとう怒鳴られてしまつた。

原因は、すぐに分かつた。

机の上に高く積まれた書類の山。その一部が、キーボードのファンクションキーに乗つてゐたのである。

筆者が書類を静かにどかすと、キーボードは何事もなかつたかのやうに、正常に動き始めた。

あつけにとられる本部長。

先ほどの怒声もあつて、少々気まずい思ひをされたのであらう。しばし、互ひに言葉がなかつた。

その時、筆者は一つのことを学んだ。

コンピュータは、すでに業務の中へ完全に組み込まれてゐる。

パソコンを使はなければ仕事が進まない。つまり、パソコンが使へないといふことは、単に機械が故障したといふ話ではない。

仕事をするための手足を、一時的に奪はれたやうなものなのである。

本部長の怒りも、書類をキーの上に置いたことへの反省も、すべてはその状況から生まれたのであらう。

これを、単なる昔話として片づけない方がよい。

今でも、同じやうなことは起こり得る。

私たちは、パソコンやスマートフォンの先にあるさまざまなサービス、さらにはAIにまで、深く依存するやうになつてゐる。

それらが障害を起こし、誤動作を繰り返せば、個人の仕事だけでなく、社会全体が大きく混乱することもある。

東日本大震災の際、物流の現場でも、システムや設備の停止によつて、商品の出荷や配送に大きな影響が出たことがあつた。

便利な仕組みは、平常時には人の手間を減らしてくれる。

されど、その仕組みが止まつた時、私たちは、どれほど多くの仕事を機械に預けてゐたのかを思ひ知らされる。

情報システム部門は、単にパソコンに詳しい人を集めた部署ではない。

業務を止めぬために、機械と人との間を取り持ち、障害が起きた時には原因を探り、復旧への道筋をつける役目を担つてゐる。

その始まりは、案外、「パソコンが使へぬ!」といふ、現場の小さな叫びであつたのかもしれぬ。