消えた言葉、実現した未来――ユビキタス社会のその後

「ユビキタス社会」という言葉を、あなたは覚えてゐるだらうか。

この言葉がしきりに使はれはじめたのは、もう四半世紀も前のことである。

「いつでも、どこでも、何でも、誰でも」ネットワークにつながることで、さまざまなサービスが生まれ、人々の生活がより豊かになつてゆく。

そんな未来を表す言葉であつた。

二〇〇〇年頃は、まさにその途上にあるといふことで、実に心地よい響きを持つてゐたやうに思ふ。

ところが、今ではどうだらう。

「ユビキタス社会」といふ言葉を、日常のニュースやメディアで目にすることは、ほとんどなくなつた。

理由は、ある意味では明らかである。

その言葉が描いてゐた社会が、いつの間にか、当たり前になつてしまつたからだ。

買い物をする。

文章を書いて、遠くの相手に思ひを伝へる。

天気を調べる。

海外の出来事を知る。

地図を見る。

銀行の用事を済ませる。

これらの多くが、インターネットを通じて、いつでも、どこでもできるやうになつた。

通信速度も、三十年前とは比べものにならないほど速くなつた。

インターネットで買ひ物をすることも、もはや特別なことではない。

SNSがあり、動画があり、ニュースがあり、テレビをつけなくても世の中の出来事を知ることができる。

そして、それを使つてゐるのは、一部の先進的な人たちだけではない。

老若男女を問はず、多くの人が、街中で、自宅で、職場でスマートフォンを使つてゐる。

仕事をする場所も、会社の事務所だけとは限らない。

自宅で仕事をする人もゐれば、コワーキングスペースで仕事をする人もゐる。

かつて「ユビキタス社会」と呼ばれたものは、特別な未来社会ではなく、日常の風景になつたのである。

これと似たやうな話に、かつて流行した「引き寄せの法則」がある。

強く思つたことや、心から望んだことが、やがて現実として引き寄せられる、といふ考へ方である。

私は、この考へ方そのものを論じたいわけではない。

ただ、未来について語る言葉には、ときとして面白いところがあると思ふ。

二〇〇〇年頃の私自身を振り返つてみても、いずれインターネットで買ひ物ができるやうになるだらう、とは考へてゐた。

しかし、AIが検索履歴や購買履歴などから商品を勧め、店舗の売上状況に応じて自動的に出荷指示まで出すやうな社会が来るとは、さすがに思つてゐなかつた。

ところが、実際には、さうした仕組みが少しづつ現実のものとなつてゐる。

考へてみれば、二〇〇〇年頃に「ユビキタス社会」といふ言葉を使つてゐた人たちの中には、今のやうな社会をかなり具体的に想像してゐた人もゐたのだらう。

予測し、構想し、あるいは確信してゐた人もゐたに違ひない。

そして私たちは、その未来の中に、いつの間にか住んでゐる。

ここで、ふと疑問に思ふ。

二〇〇〇年頃にしきりに使はれてゐた「ユビキタス社会」のやうに、これから来る社会を予見する言葉は、今の世の中にもあるのだらうか。

もしあるのなら、その言葉が示す未来は、いったい何年後に「当たり前」になるのだらう。

二十年後だらうか。

十年後だらうか。

あるいは、もっと早いのかもしれない。

そして、その未来が本当にやつて来たとき、今、盛んに語られてゐる言葉もまた、「そんな言葉が昔あつたな」と振り返られるのかもしれない。

未来を予測することは難しい。

されど、かつて未来を表すために生まれた言葉が、言葉としては消えてゆきながら、その中身だけは日常の中に溶け込んでゐる。

これは、なかなか興味深いことである。