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東日本大震災――通信設備が被災したとき、何が起こるのか
2026年9月30日
東日本大震災――通信設備が被災したとき、何が起こるのか
この話は、私が通信キャリアでの仕事を経験した後、被服専門商社の情報システム担当として働いてゐた頃、東日本大震災に遭遇し、回線利用者側から通信を見た時の体験談である。
震災当時、私はキャリア側で働いてゐたわけではない。
したがつて、通信事業者側で何が起きてゐたのかについては、当時の自分の経験と、その後に知つた情報をもとにした推測も含まれてゐる。
あくまで、一人の元通信技術者が、その時に何を感じ、何を考へたのか。
その程度の話として読んでいただければと思ふ。
あなたは、東日本大震災が発生した時、何処で、いったい何をしてゐただらうか。
私は会社の事務所にゐて、給湯室でくつろいでゐた。
突然、今まで体験したことのない大きな揺れが来た。
「これは、生死にかかる事態だ」
本能的にさう感じた私は、まず建物からの脱出を試みた。
揺れと恐怖でよろけながらも階段を降り、ビルの外へ出た。
その時には、すでに従業員は皆、ビルを退館しており、逃げ遅れた人はいなかった。
隣のビルでは、屋上の受水槽が破裂したのか、水が噴き出してゐた。
それでも、辛うじてネットはつながってゐたやうで、すでに電車が運休してゐることなどを知ることができた。
ビルの外では、幹部クラスの方々が話し合ひ、この後は社員各自の判断で行動するやうに、との指示が出た。
そこで解散となつた。
会社のすぐ近くには大きな公園もあり、付近に留まつて朝を待つ者、歩いて帰宅する者、それぞれであつた。
私は、実家で一人で暮らしてゐる母が心配になり、電話をかけた。
しかし、この時点ですでに電話はつながらなかつた。
聞こえてくるのは、Busy音である。
母は携帯電話を持たない人だったので、この時点でショートメッセージなどが使へたのかどうかは分からない。
周囲の人を見ても、電話やメッセージが思ふやうに使へてゐる様子ではなかつた。
さて、このような状況にあつても、私は当時、首都圏の通信設備そのものが、すべて大きく被災したわけではないだらうと思つてゐた。
それまで通信設備に関わつてきた経験から、通信設備は地震に備へて設計されてゐるものだと考へてゐたからである。
もちろん、実際にどの設備がどの程度被災してゐたのかを、その場の私が知ることはできない。
ただ、
「今は通信が規制されてゐるだけで、いづれ解除されるだらう」
私は、そんなふうに考へてゐた。
後になつて確認したところ、東日本大震災では、東北地方を中心に通信ビルや伝送路などにも大きな被害が出てゐた。一方で、震災直後には通話が集中し、交換機の処理能力を超えたために通話規制も行はれてゐた。通信設備が壊れた場合だけが「通信できない理由」ではなかつたのである。
では、なぜ通信設備がすべて壊れてゐるわけでもないのに、震災直後には電話がつながりにくくなつたのか。
これは、一度あなた自身の身になつて考へてみてほしい。
あなたが一度に引き受けられる仕事に限界があるやうに、通信設備にも、一度に処理できる量には限界がある。
限界を超えて利用者からの要求を受け続ければ、処理が追ひつかなくなる。
そして、本当に必要な通信まで届かなくなる可能性がある。
実際、東日本大震災の発生直後には、通話が集中したため、交換機の処理能力を超えることを理由として通話規制が実施されてゐた。災害用伝言ダイヤル「171」や災害用ブロードバンド伝言板「web171」など、通常とは異なる通信手段も運用されてゐた。
つまり、通信がつながらない理由は、
「設備が壊れた」
だけではない。
「設備は動いてゐるが、利用が集中しすぎて、そのままでは処理しきれない」
といふこともある。
当時の私は、そこを通信技術者としての経験から、ある程度理解してゐた。
もちろん、利用者からすれば、電話がつながらないことには変はりがない。
しかし、通信事業者の側からすれば、無制限に通信を通し続ければよい、といふものでもない。
一時的には利用者に不便をかけることになる。
されど、通信設備そのものを守りながら、本当に必要な通信を確保するための措置も必要になる。
そのことを、私はこの震災を通じて改めて感じたのである。
さて、ここまでは、通信を利用する側から見た話である。
ここからは、当時勤めてゐた会社において、実際の業務として震災と通信に向き合つた話をしたい。
私は被服専門商社の情報システム担当として働いてゐた。
当然、業務にはコンピュータが導入されてゐる。
東京本部に基幹システムのサーバーが設置され、近畿、北海道などの支店とデータの送受信を行つてゐた。
この時、拠点間のデータ送受信が正常に行はれてゐたのか。
今となつては、詳しいことは分からない。
ただ、幸運だつたと思ふことが一つある。
震災が発生したのは、3月11日、金曜日だつた。
もしこれが月曜日の午前中であつたなら、事務処理上の影響は、さらに大きなものになつてゐたと思ふ。
2月の締め処理も辛うじて終はつてゐた。
大量の業務データがやり取りされる月末も外れてゐた。
そして、決算月も3月ではなかつた。
少なくとも、基幹システムを使つた事務処理については、最悪のタイミングを避けることができたのである。
もちろん、営業や在庫事務を担当してゐた社員の苦労は、そんな簡単なものではなかつたと思ふ。
翌週の月曜日には、公共交通機関に遅延などの影響が出てゐたものの、通勤そのものは可能で、多くの社員が出社して通常業務を行つてゐたと記憶してゐる。
そして、もう一つ、私自身の予定があつた。
私は震災の翌日、近畿本部へ出張する予定になつてゐた。
上司からは、
「無理はするな」
と言はれてゐた。
幸い、土曜日はJRが運休してゐたものの、丸ノ内線は通常運行してゐた。
そこで東京駅まで行き、新幹線に乗り、近畿本部までたどり着くことができた。
西日本では、東日本大震災の揺れを直接感じることもなく、ニュースを見て初めて状況を知る、といふ状態だつた。
現地の社員の話では、震災のニュースを聞き、データ送受信などの作業を控へてゐたやうである。
そのため、通信回線そのものが業務にどの程度影響したのかについて、私が詳しく知ることはできなかつた。
しかし、この経験を通して、一つのことを考へさせられた。
東京本部に基幹システムのサーバーがある。
そこに重要な業務データが集まつてゐる。
そして、そこには業務を理解してゐる人間も集まつてゐる。
普段は、それが最も合理的な仕組みに見える。
ところが、大規模災害が起きた時には、
「東京に集中してゐること」
そのものが、別の意味を持つ。
東京が被災すれば、サーバーだけでなく、通信、人員、交通、電力、取引先との連絡など、さまざまなものが同時に影響を受ける可能性がある。
この震災は、私にとつて、
「業務に必要なものを、一つの場所に集めておくことは、本当に安全なのだらうか」
と考へるきつかけになつた。
そして、この震災を契機として、企業が事業継続の観点から、東京以外の場所にデータセンターやバックアップ環境を設ける動きが広がつていつたことも、後になつて知ることになる。
ネットワークといふものは、コンピュータの画面の中だけに存在してゐるわけではない。
電話局もある。
通信回線もある。
電柱もある。
電力もある。
道路もある。
そして、それを復旧させる人間もゐる。
地震が起きれば、それらのどこかが止まる。
一つが止まれば、別のところにも影響が及ぶ。
普段、私たちは画面の中に「通信エラー」と表示されるだけの出来事として、それを見てゐる。
しかし、そのエラーの向こう側には、地面の上に置かれた設備と、そこへ向かつて走る通信回線、電力、道路、そして復旧に向かふ技術者がゐる。
ネットワークは、コンピュータの中だけにあるものではない。
東日本大震災は、私にそのことを、改めて教へてくれたのである。