購買担当者の罠――公正な取引を揺るがす誘惑

私がかつて在籍していた会社は、ITを本業とする企業ではなかった。

そうした会社では、システム機器の購買に関して、担当者にある種の役得が生じやすい環境があったように思う。

当時、従業員の多くはIT機器やシステムに詳しいわけではなく、機器の選定や業者との折衝は、システム担当者に一任されることが少なくなかった。

業者との打ち合わせに部門長や経営陣が同席することはなく、稟議書を提出し、決裁が必要になった段階で、ようやく上層部が関わる。中小企業では、そうした進め方も珍しくなかったように思う。

業者側も、そうした事情をよく承知していたのだろう。

大手電機メーカーやITメーカーの営業担当者は、最終的な決裁権を持つ人だけでなく、製品の選定を担うシステム担当者にも、さまざまな方法で接触してきた。

システム製品の場合、実際に製品を評価し、導入の可否を判断する担当者から好意的な評価を得られれば、受注につながる可能性が高まる。営業担当者も、そのことをよく理解していたのだと思う。

ある日、営業担当者から、こんな誘いを受けた。

「御社にとって、とても有益な製品が発売されます。ぜひご紹介したいので、展示会にお越しいただけませんか」

私は業務の予定を調整し、展示会へ出向いた。

ところが、展示会が終わると、会場の一角には立食形式のパーティー会場が設けられ、来場者に食事が振る舞われる段取りになっていた。

私は、これはまずいと思った。

そのまま参加するのは気が進まない。そこで、腹痛を理由にトイレへ行くと告げ、会場から逃げ出したことがある。

また、別の日には、業者から事務所の外で「業務終了後にお話ししたい」と連絡を受けた。

話を聞くつもりで出向いたところ、相手は私を居酒屋へ連れて行こうとした。

こちらとしては、製品や技術について話をするつもりだったのだが、どうやら相手の思惑は違っていたらしい。

もちろん、業者との情報交換や製品説明そのものが悪いわけではない。展示会も、食事を伴う会合も、それだけで不適切だとはいえない。

しかし、相手から過剰な接待を受けたり、個人的な便宜を図ってもらったりすれば、いつの間にか判断に影響が及ぶかもしれない。

「あの業者には世話になっているから」

そんな気持ちが芽生えれば、製品の性能や価格を冷静に比較できなくなるおそれがある。自分では公正に判断しているつもりでも、知らず知らずのうちに、相手に有利な評価をしてしまうかもしれない。

購買担当者にとって怖いのは、そうした関係ができあがることである。

当時の私には、業者との付き合いの中に、こうした誘惑がいくつも存在しているように感じられた。

余談だが、私の父も大手企業で購買担当課長を務めていた。

お中元やお歳暮の時期になると、我が家には取引先から大量の贈り物が届いたものだった。

しかし、母は荷物が届くと、そのまま送り主へ返送していた。

それが、わが家では毎年のように繰り返される光景だった。

父がどのような考えで仕事をしていたのか、私はすべてを知っているわけではない。ただ、少なくとも家庭では、贈り物を当然のものとして受け取ることはなかった。

一方で、父の会社では、業者から手厚い接待を受けていたことが明らかになり、解雇された社員もいたと聞いている。

接待や贈答は、受け取った瞬間に問題が表面化するとは限らない。けれども、いったん不適切な関係が明るみに出れば、本人の信用だけでなく、会社全体の信用にも傷がつく。

近年は、企業のコンプライアンス意識が高まり、接待や贈答に関する社内規程を設けたり、取引の手続きを明確にしたりする動きが進んでいる。また、IT製品やサービスのあり方も変わり、購買の現場そのものも、当時とは様変わりしているだろう。

それでも、製品を選び、業者を評価し、会社のお金を使うという仕事の性質は変わらない。

購買担当者には、取引先との関係を築く役割がある。その一方で、相手との距離が近くなりすぎれば、公正な判断を損なう危険もある。

だからこそ、担当者個人の良識だけに頼るのではなく、接待や贈答の扱いを明確にし、複数の目で判断できる仕組みを整えることも大切なのだろう。

購買担当者に求められるのは、業者と親しくなることでも、相手を疑い続けることでもない。

相手と良好な関係を保ちながらも、判断の公正さを失わないこと。

それが、会社のお金を預かる者の務めなのだと思う。