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精進落としは、まだ早すぎた――会津駒ヶ岳の胸騒ぎ
2026年10月17日
精進落としは、まだ早すぎた――会津駒ヶ岳の胸騒ぎ
もうあれから、十七年の年月が流れてしまった。
その日、私は始発の電車に乗り、東武浅草駅から会津高原尾瀬口駅へと向かっていた。目指すは、そこからバスに乗り換えてたどり着く会津駒ヶ岳の登山口である。
電車に揺られている間から、どうにも胸のざわめきが抑えられずにいた。 孔子の言葉には「四十にして惑わず」とあるが、私にとってこの年代ほど、苦悩と逡巡の中で格闘した時期はなかったように思う。この時、ちょうど本厄を迎えていたのは単なる偶然だろうか。当時勤めていた会社は財務的な危険水域に入りつつあり、水面下での社員同士の確執や優秀な人材の流出が同時に発生していた。まさに社内は「阿修羅のごとき」様相を呈していたのだ。
そうした渇いた心にオアシスを与えてくれたのが、登山だった。 週末ともなれば、近くは奥多摩、秩父、丹沢、遠くは南アルプス、八ヶ岳、尾瀬へと、日帰り・一泊を問わず様々な名峰へ足繁く通った。
ちょうどお彼岸の墓参りを済ませた翌週、私は尾瀬へ行くことを決めていた。 しかし、新宿発の夜行バスはあいにく満席。やむなく電車ルートに変更し、行き先を会津駒ヶ岳にしたのだった。
当日は、前週までの悪天が嘘のような見事な晴天だった。 幸先の良さを感じながら登山口を出発し、山頂を目指す。とはいえ、尾瀬の山々は容易に人を受け入れてはくれない。比較的易しいとされる至仏山でさえ八合目からの道のりは遠く、平ヶ岳や燧ヶ岳は言うに及ばずである。会津駒ヶ岳もそれ相応のしんどさがあったが、なんとか登頂を果たし、檜枝岐村の標識の前で記念撮影をして下山にかかった。
会津駒ヶ岳から中門岳を経て、駒の小屋で小休止を取っていたときのことだ。 瞬く間にあたりは濃い霧に包まれ、完全に視界が奪われてしまった。なかなか晴れそうにない霧に「いつになったら下りられるか……」と不安がよぎり始めた頃、突然の強風が吹き抜け、一瞬にして霧を追い払ってくれた。
「今だ」とばかりに足を速め、今度はキリンテと呼ばれる登山口へ向かって下りていく。 キリンテに着く頃には再び晴れ間が戻っていたが、日が短くなっていたのか、陽光は大分傾いていた。
当時、キリンテバス停のすぐ近くに食事処があった(現在はなくなってしまったようだが)。 昼食はおにぎりなどの軽いものだったので「下山後はガッツリ食べよう」と意気込み、最初は親子丼を頼もうとした。だが、なぜかどうしても気が進まない。では川魚の甘露煮定食にしようかと思い直したものの、あいにく品切れ。結局、私はざる蕎麦と胡麻だれ餅を注文して食べた。
ほどなくしてやってきた会津高原尾瀬口駅行き最終バスに乗り込み、駅へと戻る。 そこで圏外から復帰した携帯電話の画面を見ると、義兄からの着信履歴が残っていた。これまで彼と携帯で通話などしたことがない。嫌な胸騒ぎが走った私は、折り返しではなく、駅に到着してから実家へ直接電話をかけた。
電話に出た母は言った。 「お父さん、今朝がた、亡くなったの」
午前中から続いていた、あの異様な胸騒ぎの正体はこれだったのかと、腑に落ちた瞬間だった。
ここからは少し不思議な話になる。 義兄が電話をかけてくれた時刻、私の携帯は「電波の届かない場所にあるか……」のアナウンスが流れ、呼び出し音すら鳴らなかったという。また、下山後の食事処で肉類を欲していたはずなのに、土壇場でどうしても食指が動かなかったことなど、思い返せば不思議な一致がいくつもあった。
無意識のうちに精進料理のような献立を選んでいた私が、再び肉や魚を口にしたのは、初七日(実際には三日目)が過ぎた精進落としの握り寿司だった。この記憶だけは今でも鮮明に残っている。
「お父さんのことを放り出して尾瀬くんだりまで行っちゃうんだから」 長姉からは、留守中に葬儀の準備を背負わせた恨み節をしばらく言われ続けた。
きょうだいの中で一番父との関係が深く、父の性格や思いを誰よりも理解していたつもりだったが、その最後の瞬間に立ち会えなかったことは、今でも悔やまれてならない。