可愛い孫には「本物の食」をさせよ――母が遺した、最後の投資哲学

どこの家庭でも祖父母が孫を可愛がる姿は見られるが、母の場合、その接し方は他所と比べて少し変わっていたかもしれない。

お孫さんのいる家庭では、どのように遇しているだろうか。正月にお年玉をあげる、多忙な娘に代わって保育園の送り迎えをする、公園へ散歩に連れていく……といったことが一般的だろう。母もそうした一通りのことはしていたが、唯一違っていたのは、自らの経済力を活かして孫に娯楽を体験させることが、彼女なりの「未来への投資」であった点だ。

大人目線で安易にテーマパークへ連れていくようなことはしない。風光明媚な場所へ連れ出し、素材を生かした本物の味を、最高のロケーションで体験させることを何より大切にしていた。本当に実のある食を味わう体験こそが、その人の内面を豊かに育てていくのだと、母は知っていたのかもしれない。

そんな母の行動を見ていて、ふと思い出すことがあった。 以前、友人とタイのバンコクを旅した際、ホテルニューオータニ・バンコクでアフタヌーンティーを体験したときのことだ。当時は単なる思いつきだったが、ホテルを後にしたとき、まるで王侯貴族にでもなったかのような心が満たされる感覚を味わった。最高級ホテルで過ごす時間は、優雅な気持ちをもたらすと同時に、自然と立ち振る舞いやマナーを身につけさせてくれるのだと実感したのだった。

ある日、姉に「都内の最高級ホテルでアフタヌーンティーはいかが?」と持ちかけると、ぜひ行きたいと即答された。目的地は六本木の「ザ・リッツ・カールトン東京」。姪(母にとっての孫)が将来立つべきステージとして、申し分ない場所だろう。

東京の田舎者を自認する私にとって、六本木という街は少々敷居が高く気おくれしそうだったが、いざ駅に降り立ち地下通路を歩くうちに、なんとも言えない贅沢な胸の高鳴りが湧き上がってきた。

ホテルのエントランス付近では、姉と姪がすでに待ってくれていた。二人とも洗練された装いで、アフタヌーンティーを楽しむ準備は万全のようだった。

エレベーターで上層階へと向かう。扉が開くと、全方位に広がる洗練された空間と、大きな窓の向こうに広がる高層ビル群、その彼方にうっすらと眩む山々の絶景が飛び込んできた。スタッフの丁寧で品格ある挨拶に迎えられ、予約席へと案内される。まるでタイムマシンに乗って、シンデレラや王子様になったかのような錯覚を覚えた。

やがて、ティースタンドに盛られた色鮮やかな料理やスイーツが次々と運ばれてくる。スコーンひとつを取っても、普段目にするものとは全く違って見えた。

丸テーブルで、母と姪が対面で座っている。 ティースタンドに積まれた料理の向こう側から、母は愛おしそうに孫へと優しい眼差しを向けていた。少しずつの料理を、二人で会話を交わしながらゆっくりと味わっていく。

――実はこの年の夏、私は母の担当医から密かに呼ばれていた。 既に罹患していた母の腺癌が進行しており、高齢ということもあってこれ以上の積極的な治療は難しい旨を告げられていたのだ。直接口には出さずとも、母自身も自分の体の限界を薄々感じ取っていたはずだ。

人の命は有限であり、いつかは天命に従う時が来る。 だからこそ母は、残されたわずかな時間の中で、自らの資産と環境を惜しみなく使い尽くそうとしていたのだろう。このアフタヌーンティーで過ごしたひとときは、母にとって間違いなく至福の瞬間であったはずだ。

正直に言えば、生前の母は家事を合理的にこなせるタイプではなく、情緒不安定なところもあって時に家族を困惑させた。今振り返れば、親として未熟な面も多かったと思う。だがその反面、母は「利殖」に関して言えば天賦の才に恵まれていた。

若い頃から株式投資に親しみ、壮年になってからは投資信託で次々と利益を出した。父の給与所得とアパート収入があったとはいえ、我が家が相応の財産を築くことができたのは、間違いなく母の利殖の才能によるものが大きい。

子供のころの我が家は徹底した節約主義で、生活費を極限まで切り詰めて支出を抑えていた。しかしその一方で、子供たちの学費や娘への住宅購入資金をしっかりと稼ぎ出し、それが一段落すると、今度は孫への「体験投資」に情熱を注いだのだ。自らを律して我慢して行うというよりは、まるで投資というゲームのスコアを伸ばすことを楽しんでいるかのようだった。

今となっては、母が孫に施したあの「食育」が、どれほどの効用をもたらしたのかを推し量る術はない。けれど私は、あれも「婆ばの粋な道楽」だったのだと思うようにしている。

と同時に、いつか姪が大人になったとき、あのリッツカールトンで祖母と囲んだ食卓の記憶が、彼女の人生のどこかで豊かな糧となって花開くことを、密かに期待している。

そして少なくとも私自身は、母が遺した「食」に対する美学と情熱の、一番の継承者であると密かに自負しているのだ。