5-columns
物価高騰の時代に問い直す――「今日の献立を選べる」という奇跡
2026年11月3日
物価高騰の時代に問い直す――「今日の献立を選べる」という奇跡
かつて二〇世紀の終わり頃、格安旅行作家の草分けである下川裕治氏の著書を読んでいた際、忘れられないフレーズに出会った。
「歴史のアジア、金の北米、女の南米、少しはマシなヨーロッパ、耐えてアフリカ……」
世界各地を旅してきた筆者のこの言葉のうち、「耐えてアフリカ」だけは、その後の自分の体験を通して心から納得できる言葉となった。
今から二〇年ほど昔、私は北アフリカのモロッコを旅していた。 スペインのアルヘシラスから海路でモロッコ・タンジェへ入国。そこからフェズを経てアトラス山脈を越え、サハラ砂漠の拠点であるエルフードへと進むにつれ、己の体力が削られていくのをはっきりと実感した。
冬だというのに、昼間は二五度近くまで気温が上がる。しかし日が沈むと一気に一桁台まで冷え込むのだ。乾燥地帯特有の空気のせいか、体感温度はそれ以上に低く感じられた。私が泊まるような一〜二つ星クラスの安ホテルに暖房などあるはずもなく、夜は薄い毛布を何枚も重ねて寒さを凌ぐほかなかった。お湯が出るには出るが、水自体が貴重な地域ゆえ、各部屋のタンクに溜められたお湯を使い果たすと、温水どころか水すら出なくなるという有様だった。
そんな過酷な夜の唯一の楽しみといえば「温かい食事」なのだが、選択肢は恐ろしく少なかった。 土鍋で煮込んだタジン(鶏肉か牛肉)か、ハリラスープにフランスパン。金曜日であればクスクスが食べられる程度だ。タジン鍋に入っている人参も、日本で見かけるような丸々と太ったものではなく、人差し指ほどしかない小さなもの。ジャガイモも驚くほど小ぶりだった。
凍える夜、貧しい食卓を前にして私が思い焦がれたのは、東京でのあまりに豊かな食生活だった。 当時の私の年収は現在の四分の一ほどしかなく、自宅で気軽にすき焼きや寿司を食べるような身分ではなかった。しかし、吉野家の牛丼くらいなら食べたい時にいつでも食べられる程度の経済力はあった。
味の良し悪し以前に、限られた選択肢の中から選ぶしかない食事。 「なんなら二〇〇〇円出してもいいから、温かいラーメンが食べたい」 「三〇〇〇円出してもいいから、熱々のカツ丼が食べたい」 そう願っても、そんな店はこの街のどこにも存在しないのだ(カサブランカのような大都市や、観光地マラケシュなら話は別だったかもしれないが)。
「その日、自分が食べたいと思える食事を選んで口にできる」――この当たり前のようなありがたみを骨身にしみて実感したのは、北アフリカの地に立ってからのことだった。
それ以前の私は、バンコクで食べたラーメンに「こんなの食えたもんじゃない」と毒づき、パリの歓楽街で食べたトンカツの衣のヒタヒタ感に「これがトンカツか?」と、心の中で散々罵詈雑言を吐き捨てていた。しかし、北アフリカの極限的なモノ不足に比べれば、不満を言える選択肢が存在していたこと自体、どれほど恵まれていたことか。湧き上がってきたのは、過去の自分への恥じ入る思いと感謝の念であった。
このモロッコでの体験と、その後の歳月の経過は、私に大きな気づきを与えてくれた。 アジア、ヨーロッパ、中近東、アフリカ……様々な国を巡って痛感するのは、「日本ほど庶民の食生活が多様で豊かな国はない」ということだ。
もちろん相応の対価を支払えば、世界中どこの国であっても最高級の料理を楽しむことはできる。しかし、一般的な庶民の購買力で、これほど多種多様な食材や料理が身近に手に入る国は、近年の世界的な物価高騰の流れの中にあって、極めて稀有な存在と言える。
特に現在、自家菜園で土に触れ、援農ボランティアとして農家さんの現場をお手伝いしている私にとって、スーパーマーケットの棚の「向こう側」を想像するとき、日本の食が持つ計り知れない贅沢さを実感せずにはいられない。
飲食店のようにメニューを固定する必要のない一消費者だからこそ、キャベツやレタスが高騰していればカブで代用してみる。豚肉が高い時期なら、相対的に安いブロック肉を買い込んで自家製チャーシューを作ってみる。私たちの前には、常に無数の「選択肢」が用意されているのだ。
ふと、別のエピソードを思い出す。 以前、仕事の出張で地方都市の郊外にある大規模工場へ詰めていた時のことだ。市街地までは車で三〇分ほどかかり、周辺には飲食店など一軒もない。そこで働く従業員の方々は、会社から補助が出る格安の「日替わりお任せ弁当」を頼んで昼食を取っていた。
私も外へ出かけるのが面倒だったため、「郷に入っては郷に従え」でそのお任せ弁当を注文した。決して絶品とは言い難いものの、栄養バランスの考え抜かれたボリュームのある内容だった。しかしそこには「自分で選ぶ」という余地は存在しなかった。
その日に食べるものを自分で選べること。自分の体調や気分に合わせて、栄養やメニューを自在に調整できること。
年寄り染みた説教節にするつもりはない。けれど、物価高騰や社会構造の変化が加速する今だからこそ、私は日々の食卓で「食事を選べる」という言葉の持つ本当の意味を、静かに問い直し続けている。